サウルは、そばに立っている家来たちに言った。
「聞け。ベニヤミン人。
エッサイの子が、おまえたち全部に畑やぶどう畑をくれ、
おまえたち全部を千人隊の長、百人隊の長にするであろうか。
それなのに、おまえたちはみな、私に謀反を企てている。
きょうのように、息子がエッサイの子と
契約を結んだことも私の耳に入れず、
息子が私のあのしもべを私に、
はむかわせるようにしたことも、私の耳に入れず、
だれも私のことを思って心を痛めない。」
1サムエル22: 7-8
サウル王は「だれも私のことを思って心を痛めない」と嘆いています。
サウル王はダビデの人気をねたみ、彼を殺そうとしているのですが、
逃亡中のダビデの情報が十分入ってこず、
部下たちに向かって「だれも私のことを思ってくれない」と
不満をぶつけているのです。
つまり、サウル王の嘆きは、
自分可愛さからくる被害者意識であり、ひがみです。
自己憐憫(じこれんびん)、すなわち自分をあわれみ、
自分をかわいそうと思うあまり、
自分は不当に扱われていると思い込み、
周囲に敵意を抱き、孤立しています。
辛い時に、「誰も自分を分かってくれない」というような
気持ちになることはあるでしょう。
ダビデもそういう時がありました。
しかし、彼はその時どうしたでしょうか。
私の右のほうに目を注いで、見てください。
私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、
私のたましいに気を配る者もいません。
主よ。私はあなたに叫んで、言いました。
「あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。
私の叫びに耳を留めてください。
私はひどく、おとしめられていますから。
どうか、私を迫害する者から救い出してください。
彼らは私よりも強いのです。
私のたましいを、牢獄から連れ出し、
私があなたの御名に感謝するようにしてください。
正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。
あなたが私に良くしてくださるからです。」
詩篇142:4-7
ダビデは、苦しみの中で、
自分に気を配ってくれる者がいないと嘆いていますが、
それを人にぶつけるのではなく、
神に向かって「私の叫びに耳を留めてください。」
と叫びました。
この苦境から救い出され、神に感謝をささげたいと願いました。
神はこの祈りに答え、良くしてくださり、
必ず、正しい者たち(神を信じる人たち)が
集まってくれるだろうと期待しています。
つまりダビデは、サウルと同じように、
自分の境遇を嘆きましたが、
その思いを神に向け、神に期待し、
祈りの中に道を見出そうとしているのです。
サウル王のように、人に不満をぶつけたり、
まして相手を殺そうとしたりなどとはしないのです。
自己憐憫の危険から心を守る道は、神に祈ることです。
「私の叫びに耳を留めてください。」と祈ることです。
もちろん、人と話し、辛い気持ちを分かち合うことも大切です。
しかし、気を付けないと、励ましや慰めの中で、
自分をあわれむ気持ちがさらに助長され、
被害者意識が増大することもないわけではありません。
真の解決はやはり神に向かうところにあります。
先日の説教で、私は第一サムエル8:6を中心にお話ししました。
彼らが、「私たちをさばく王を与えてください」と言ったとき、
そのことばはサムエルの気に入らなかった。
そこでサムエルは主に祈った。
1サムエル8: 6
イスラエルの民の提案は間違ったものであり、
それゆえサムエルは嫌な気持ちになりました。
彼らの言うことが気に入りませんでした。
しかしサムエルはそこですぐに神に心を向けました。
それゆえ、彼自身は道を誤ることがありませんでした。
カインはその点で失敗した人の一人でしょう。
アベルもまた彼の羊の初子の中から、
それも最上のものを持って来た。
主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。
それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
創世記4: 4
カインのささげものが受け入れられなかったのは、
カインの心に問題があったのです。
それを教えられたのですから、悪かったと思って、
改善すればよかったのです。
あるいは納得できないのであれば、
神に祈り、たずねればよかったのです。
しかしそれをせず、怒りをためこみ、
それはやがて殺人という恐ろしい罪となって
表面化したのでした。
自分はひどい扱いを受けた、
ひどいことを言われた、という時、
対応を誤ると被害者意識が増大し、
あらぬ罪を犯すことになります。
まずは神に心を向け、助けを求め、
「私の叫びに耳を留めてください。」
と祈ることが大切です。
サウル王のような自己憐憫に陥らぬよう、
主の助けを仰ぎましょう。