第一コリント 12 : 10

 


ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

(第一コリント12:10)

 

初代教会においては、「みなの益となるために、おのおのに御霊の現われ」として、賜物が与えられていました(7節)。
これまで、知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物についてみてきました。
さらにパウロは5つの賜物を挙げます。

一つ目は「奇蹟を行う力」。使徒たちは、病気をいやしたり、魔術師エルマを盲目にしたりなど、いくつかの奇蹟を行いました。イエスはさらに多くの奇蹟をなさいましたが、それで人集めをしたり、収入を得たりするためではなく、ご自身が神の子であることを示すためになさいました。一部の弟子たちに与えられた「奇蹟を行う力」も、彼らが確かに神から遣わされた者であることを示すためのしるしでありました。事実、彼らは、奇跡を宣伝したり、奇蹟で人やお金を集めようとはしませんでした。

二つ目は「預言」。
預言とは、未来を言い当てる「予言」ではなく、神からのことばを預かって伝えることです。未来のことも含みますが、多くは現在に向けて語られました。当時は聖書がまだ完成していませんでしたから、神様は、直接、預言という形でみこころを弟子たちにお伝えしました。今は、聖書が完成しましたので、これに何かを付け加えるような預言はありません。もし新しい預言や啓示によって聖書に何かを付け加えようとする人がいるなら(実際いますが)、その人は、聖書は不完全であると言っていることであり、神に背いています。そのような動きには十分注意しましょう。

3つ目は「霊を見分ける力」。
これについては詳しくはわかりませんが、前項で記したような注意すべき指導者、クリスチャンを見分ける感覚の鋭さの賜物だと考えられます。クリスチャンの中には、論理的に見分ける人、感覚・感性的に見分ける人がいるように、思います。自称クリスチャンを、早い時期から見分ける人がいて、そのとおりのことが多いので、感心してしまいます。そのような賜物をもった人は、今も一定数、いるように思います。

4つ目は「異言」、5つめは「異言を解き明かす力」。
異言については、この後の大きなテーマになるので、そこで詳しくパウロは扱います。そこでも触れられていますが、異言の賜物には、必ずそれを解き明かす賜物がセットになっていなければなりません。異言とは、外国語ないし意味不明の言葉をもって、真理を語ることです。ペンテコステの日に、使徒たちも異言を語りました。その内容は、聞く人に理解されましたし、ペテロもまた、すぐに説明をしました。威厳が今日もあるか否かについては、議論のあるところですが、少なくとも、解き明かす力の伴わない異言は、教会に混乱をもたらすだけです。仮に異言が今もあるとすれば、それは教会に、異様な興奮や無秩序ではなく、秩序やきよさをもたらすはずでしょう。いずれにしても、異言をことさら重要視すべきではないというのが、コリント書でパウロがこれから述べていくことの一つであります。

以上、9つの賜物を見てきました。大事なのは、それらが「皆の益のため」に与えられているということです。ここに記されなった賜物も同様です。自分のためにではなく、周りの人の霊的な祝福につながるように、与えられた賜物を用いていきましょう。