第一コリント 7 : 21

 

奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。
しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。

(第一コリント7:21)

 

近代の欧米諸国による悲惨な扱いを受けた奴隷と、
新約聖書時代の奴隷は、同一視できるものではありません。
新約聖書時代の奴隷とは、主に戦争捕虜でした。
奴隷でも、教養のある人、手に職のある人などが多くいました。
彼らは、貴族層の家に雇われ、子どもの家庭教師をしたり、
経理や法律事務、建築の設計・監督などを担ったりしました。
奴隷でありながら、ローマ市民よりもお金持ちという人は多くおりました。
彼らはもちろん、かなり丁重に扱われました。
中には、ローマ市民権を得る人もいました。
小規模な農家の奴隷でも、家族の一員として、人として扱われました。

こういうわけですから、奴隷が宗教団体に入っていることも珍しくなく、
事実、キリスト教会にも大勢の奴隷の方がいたのです。
人種や身分によって行く教会が分かれる、ということもありませんでした。
同じ教会の中に、様々な人種、身分の信徒がいたのでした。

そういう中で、奴隷であることを恥じたり、引け目を感じたりする人もいました。
しかし聖書は「気にすることない。もし自由民になる機会があれば、そうすればよいが、
奴隷のままでも気にすることはない」と言います。
無理に奴隷であることを止める必要はありませんでした。

救われたからと言って、外面的な何かを急に変える必要はありません。
これは、20節と共通のテーマです。
奴隷であっても、ローマ市民であっても、
クリスチャンはみな、キリストにあって自由であり、
同時にキリストの奴隷なのです。
社会的な身分は神の前に、何も関係ありません。
クリスチャンの交わりにおいては、人種も身分も関係なく、皆、神の前に平等なのです。