第一コリント 1 : 13

 

キリストが分割されたのですか。
あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。
あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。

(第一コリント1:13)

 

コリント教会の「指導者を選り好みする罪」は「キリストを分割する」ことを意味しました。
すなわち、キリストのからだである教会が、分割され、ばらばらになったのでした。
そこでパウロは「あなたがたのために十字架につけられたのは私ではない」と伝えます。

パウロのすばらしいところは、まず「パウロ派」を戒めていることです。
普通、自分につく人は擁護したくなるものです。
しかし、パウロはそうではありませんでした。

懸命な指導者は、パウロのように、自分につく人を戒めます。
教会が、誰かのファンクラブに堕すならば、それはもはや教会ではないからです。

さらにパウロは、彼らがバプテスマを受けたのは
三位一体の神の名による(マタイ28:19)のであって、
パウロの名によるのではないと言います。

バプテスマは教会の大事な式典(礼典)です。
ですが、誰から受けるか、ということは、さしたる問題ではありません。
よく、「〇〇先生からバプテスマを受けた」ということを誇りにする方がいますが、
それは先生につく信仰であって、キリストにつく信仰ではありません。
大切なのは、健全な教会の権威の下で、
三位一体の神の名によって、バプテスマを受けることです。
どういう理解で、どのような信仰告白に基づいて、バプテスマを受けたのか。
それが大事なのです。

あなたのために十字架で犠牲になられたのは、イエス・キリストです。
先生であれ、誰であれ、人ではありません。
あなたが受けたバプテスマは、三位一体の神の名のもとで授けられたのです。
誰から受けたということは、何ら問題ではありません。