第一コリント 12 : 15~16

 

たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

(第一コリント12:15~16)

 

からだが多くの器官から成り立っているように、
教会も様々な個性や役割、賜物をもったクリスチャンから成り立っています。
からだのどの部分も欠かせないように、
教会も、誰一人欠くことなどできません。

コリント教会では、賜物をめぐって人間的な比較や競争が起こったため、
自分の賜物は小さい、少ないと思っている一部の会員を落胆させたようです。
こんな目覚ましい賜物を持っている人たちが多くいる立派な教会に、
自分が属していてよいのかと、思ってしまったようです。
そこでパウロは、彼らを励ます言葉をかけています。

足は手のように細かく複雑なことはできません。
いつもからだの全体重を支えながら、暑苦しい靴の中に閉じ込められています。
だからといって、その働きが重要でないなどということはないでしょう。
足がからだの一部から外れてよいわけがありません。

耳からすれば、目はより多くの働きをし、目立ち、重要に思えるかもしれません。
しかし耳は音を聞くだけでなく、からだのバランスをとるなど、見えにくいけれども重要な働きをして、体全体を支えています。
自分は目のような働きができないから、からだの一部から外れるという話しにはなりません。

このたとえで興味深いのは、足が目や耳ではなく、手と比べていることです。
また、耳が、手や足ではなく、目と比べていることです。
つまり、自分と立場や役割が遠い存在ではなく、どこか類似している近い器官と比較して、すねていることです。
人は、立場や年齢、タイプがあまりに違う人とは、比較しません。
いくらか近い、ないし類似したポジションの人と比較し、優越感を得たり、劣等感を覚えたりします。

しかし、人はそれぞれ違うのであって、他の人にはなれません。
他の人のようにできないからといって、教会から離れるという話にはなりません。
自分に与えられた役割、賜物、使命に満足し、主のために自分を生かしていくとき、
自分も教会も、大きな祝福を得るのです。