第一コリント 9 : 17

 

もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。
しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。

(第一コリント9:17)

 

16節で、福音宣教をしないことはわざわいだ、とパウロは述べていました。
福音宣教は、どうしてもしなければならないことであり、
それをしたからといって、誇るようなものではないとも述べていました。

それを受けての17節ですが、何を言おうとしているのかは難解で、
いくつか、解釈がありますが、おそらく次のような意味でしょう。

「もし私が、する義務のない福音宣教を自発的にしているのなら、報いはある。
しかし、強制的にこの働きに従事することになり、何の報いがないとしても、
ゆだねられた務めにしっかり取り組んでいく。」

事実、パウロはこの貴い働きを自ら望んでではなく、
ダマスコ途上でお会いしたイエスに、強いられたのであって、
その使命感から、務めにはげんでいます。
強いられたといっても、それに文句を言っているのではなく、
恵みによってゆだねられた働きとして前向きに受け止めているのです。

ある意味では、人は強いて恵みを与えられ、クリスチャンになったのです。
自分から臨んだのではなく、
神に選ばれ、福音を聞く機会が与えられ、それを信じる信仰を賜り、
悔い改めと信仰告白への恵みにあずかりました。
そのままであったら、永遠の滅びと、神なき悲惨な人生を送るだけであった者に、
神は強いて救いを与えてくださったのです。
パウロだけでなく、救われた人はみな、委ねられた務めがあります。
強いて与えられた恵みに感謝し、その務めをしっかり果たしていきましょう。