第一コリント 11 : 21

 

食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。

(第一コリント11:21)

 

当時の「主の晩餐」は、愛餐と呼ばれるタイプのもので、
パンと杯の儀式に続いて、食事会が催されていました。
キリストを覚える「主の晩餐」のあとの食事会なのですから
キリストにある愛と一致のあらわれるはずの交わりでした。

ところが、コリント教会では違っていました。
金持ちのクリスチャンが食事の大部分を提供するのは良かったのですが、
そうでないクリスチャンが来る前に、すでに食事会を始めてしまったのです。
貧しいクリスチャンは仕事終わりでないと来られませんし、
奴隷のクリスチャンたちも、時間通りに来ることはできません。
そういう人たちを、金持ちのクリスチャンは待つことをせず、
食えや飲めやで、「めいめい我先にと自分の食事を済ませ」てしまいました。
貧しいクリスチャンたちが到着する前に、すでに食べ物はなくなり、
「空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつ」だったのです。
そこには、真実な思いやりや愛の分かち合いはなく、
「主の晩餐」の本来の意味が失われていたのです。

「主の晩餐」の意義の一つは、キリストを中心とした愛の交わりの体現です。
「主の晩餐」は、教会の交わりがどのようなものかを証するものでもあるのです。