第一コリント 10 : 17

 

私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。
私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

(第一コリント 10:17)

 

パウロは「偶像にささげた肉を食べてよいか」という課題に入っています。
その答えを導き出すために、主の晩餐のことを思い出させています。

主の晩餐は、教会に与えられた礼典です。
これを執り行い、主が来られる日まで、主の十字架を証することは、
クリスチャンの聖なるつとめの一つです(11:26)。

主の晩餐では、パンを裂いて食し、契約の杯を分かち合います。
契約の杯のことを、パウロはここで「祝福の杯」と呼んでいます。
それは、当時、杯を分かち合うとき、祝福の祈りがささげられたからです。
ともあれ、杯を飲むことは、「キリストの血にあずかること」です。
イエス様の十字架の犠牲を、自分のこととして受け入れます。
同様に「裂くパン」を食すことは、「キリストのからだにあずかること」です。

もちろん、パンやブドウ果汁に特別な効力があるわけではありません。
パンやブドウ果汁はキリストの十字架などを示す象徴であって、
それ自体がキリストではありませんし、そこに神秘的な力などもありません。
しかし、主の晩餐にあずかることは、自分がキリストのものであること、
キリストのからだの一部であること、キリストのいのちにあずあっていることを
公に証しするのであって、きわめて霊的な行為です。
そのようにキリストの血とからだを分かち合うクリスチャンが、
軽々しく、偶像にささげられた肉を食べるべきではありません。
主の晩餐が、私たちとキリストとの霊的交わりを意味するなら、
偶像にささげた肉は、偶像の背景にある悪霊との交わりを意味するからです。
ただ、結論は、そう単純ではありません。
なぜなら、当時、市場に出回っていた肉は、ほとんどが形式的にであれ、
偶像にささげられた肉だったからです。
一体、クリスチャンとしてどうしたらよいのか。
パウロはこの複雑な問題に、この後、丁寧に答えていきます。