私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
1ヨハネ4:10
私たちは、神を愛さないことがあります。
それは罪を犯すときです。
神を愛するとは、神の命令を守ることですが、
私たちは、神の命令を軽んじたり、
見ないようにしたりすることがあります。
そのようにして罪を犯すとき、
私たちは神を愛していないのです。
しかし、神の愛は、私たちの愛に対する応答ではありません。
私たちが神を愛そうと、愛することに失敗しようと、
私たちに注がれる神の愛は変わることがありません。
神は私たちが愛することに失敗する罪人であることを知りながら、
ご自身の怒りをなだめる供え物としてキリストを犠牲にし、
罪人に救いの道を開かれました。
このような愛で愛されているのですから、
クリスチャンは、本当に幸せなのです。
だからといって、罪を構わず犯していいということではないですし、
神の愛が本当に分かっている人は、そうは考えないでしょう。
神の愛に応えようとするでしょう。
それでもなお失敗することがあります。
そんな時は、このみことばを思い出しましょう。
神の愛がいかに確かなものかを思い出しましょう。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
だからわたしは人をあなたの代わりにし、
国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
イザヤ43: 4
主は遠くから、私に現われた。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
エレミヤ:31: 3
わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合うこと、
これがわたしの戒めです。
ヨハネ15:12