「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、
福音を宣べ伝えさせるためです。
それも、キリストの十字架がむなしくならないために、
ことばの知恵によってはならないのです。」
(第一コリント1:17)
バプテスマを授けることは、もちろん大切な働きです。
イエスは、バプテスマを授けるよう、弟子たちに命じられました(マタイ28:19)。
しかし、それはバプテスマという儀式さえすればよい、ということではありません。
福音を宣べ伝え、理解して信じた人にバプテスマを授けることに意味があるのです。
まだ福音をはっきり受け入れていない人や、理解することもできないような年齢の子に、
ともかく儀式としてバプテスマやそれに似た儀式をしても何の意味もありません。
ともあれ、バプテスマは大事なことですが、
「だれそれ先生からバプテスマを受けた」というような、
「人につく信仰」のコリント教会に対しては、
自分の務めは、バプテスマではなく福音宣教だと、パウロは言う必要がありました。
その福音宣教のつとめで大切なのは「ことばの知恵によってはならない」ということです。
コリントのようなギリシャの町では、ギリシャ哲学や修辞学(レトリック)が盛んで、
いかに人を巧みに説得するかが研究されていました。
コリントの教会の人たちも、ことばと知識に富んでいましたので、
何を伝えるかよりも、いかに伝えるか、その方法や技術に価値を置きがちでした。
これに対してパウロは、
そのような人間の知恵によって福音宣教はなされてはならないと言います。
そんなことをすれば、キリストの十字架がむなしくしまうからです。
福音宣教は率直に真理をまっすぐ語ることです。
そうすれば、聖霊が働いて、罪人を救い、クリスチャンを成長させます。
反対に、人間の知恵(話術など)による宣教は、人の心を語る人に注目させ、
かえって、聖書や福音から遠ざけてしまうことになるのです。
神ではなく人に目が行くと、キリストのからだある教会は分割されてしまいます。
注意しましょう。