そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。
なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。
(第一コリント6:7)
パウロは、信徒間の民事トラブルを、世の民事裁判にゆだねることに反対しました。
教会と世とは、価値観が違うからです。
しかしそれ以前に、「そもそも、互いに訴え合うこと」自体が問題でした。
キリストの愛と赦しを受けたクリスチャン同士が、することではありません。
たとえ裁判所にゆだねなかったとしても、さばき合っている時点で、両者とも「敗北」です。
「むしろ不正をも甘んじて受け」るほうがよい、
「むしろだまされて」いるほうがよい、とパウロは言います。
これは、どういう意味でしょうか。
相手の不正、教会員の悪を、ただ放置しておけばよい、ということでしょうか。
そうだとすると、パウロがコリント書でこれまで言ってきたことと矛盾します。
パウロは、悪や不正に対して適切に取扱い、
悔い改めない人は最終的に、教会の交わりから取り除くようにと教えてきました。
ここで言われていることは、
イエスが「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」とおっしゃったことと同じです。
あるいは、パウロが「迫害する者に対して善を行ないなさい」と
ローマ書12章で述べているのと同じです。
つまり、不正を受けても、個人的な復讐心をもって、やり返してはならない、ということです。
だまされたからといって、だまし返してはいけない、ということです。
イエス様が、ののしられてもののしり返さなかったように、
相手のしていることは悪や不正であると知りつつも、愛を持って忍耐し、
さばきを神様にゆだねる、ということです。
具体的には、不正に対して一人でかかえるのではなく、
冷静に客観的に対応するためにも、牧師や信徒に相談するとよいでしょう。
その上で、相手の悔い改めを祈りつつ、相手に対しては皆で善を行い続けることです。
そのようにして教会はまず、愛と忍耐をもって、兄弟姉妹の不正に対応するとよいでしょう。
その上で、悔い改めもなく、かえって教会のきよさや交わりが破壊されるようであれば、
教会規則に基づいて、戒規を段階的に適用していけばよいのです。
恨みや仕返し、復讐心によってではなく、
キリストの愛と忍耐と正義によって解決する。
それが聖書の教えです。