私は、こう思います。
神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。
こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。
(第一コリント4:9)
痛烈な言葉で、コリントの教会員の目を覚まそうとするパウロは、
ここからしばらく(13節まで)、自分たちの歩んできた困難な道のりを書き連ねます。
知的高慢に陥り、王様のような態度で教会をかき乱すコリントの人たちと、
神に立てられた指導者として多くの苦難を味わい、低くされた自分たちとを比べます。
パウロは与えられた苦難に不満を抱くことなく、それを静かに受け止めています。
ローマの闘技場に見せ物として引き出される、死刑に定められた剣闘士のように、
パウロたちは嘲笑の的となり、見せ物となってきました。
欲望のままに生きる人、偽りの教えを教える人、人を見下して力を誇示する人などが、
この世で称賛や人気、成功といった報酬を得るのに対し、
ただ真理を無骨に純粋にありのまま伝える人が、理解されず、疎まれ、退けられるという現実を、
パウロは読者に示しています。
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(2テモテ3:12)とあるとおりです。
クリスチャンとは、キリストとともに苦難を分かち合う人なのです(ローマ8:17、1ペテロ4:12~14、使徒14:22他)。