あなたがたは、まだ肉に属しているからです。
あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、
あなたがたは肉に属しているのではありませんか。
そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
(第一コリント3:3)
コリント教会のクリスチャンは、
本来なら大人の信仰者になっているはずの年月を経ていましたが、
実際は霊的成長がストップした、わがままな子供のような信仰者でした。
それは、彼らが、まだ肉に属しているからだと、パウロは指摘します。
「肉に属している」とは、生まれながらの悪い人間性に留まっている状態のこと。
コリント教会の場合、具体的には「ねたみや争い」がありました。
「ねたみ」とは、他人の状態や所有物になどに対する不満や悪意。
特に身近な人、自分と境遇が似ている人に対して抱きやすい悪感情です。
「争い」は1章11節以下に出てきました。
私はペテロがいい、パウロはいやだ、アポロがいい・・・といった争いです。
こうした「ねたみや争い」は身勝手な自己主張から生じます。
激しい自己主張は、思いやりや謙遜、赦しあい理解しあう努力や祈りを遠ざけます。
パウロは、そういう人のことを「ただの人のように歩んでいる」と指摘します。
「ただの人」とは、新生していない、聖霊を受けていない人のことです。
クリスチャンはもはや「ただの人」ではありません。
神の家族であり、天国に入る人であり、聖霊の宮であり、キリストのからだの一部です。
大切なのは、クリスチャン自身が、自分は「ただの人」ではないことを自覚することです。
それは、高ぶったり、思い上がったりすることではありません。
神に愛され、選ばれ、救われたことの感謝と誇りをもって、
神を敬い、人を愛することに仕えていくとの自覚を持つことです。
各国のスポーツの代表が、誇りと責任を胸に、競技に臨むように、
神の国の一員として選ばれた人は、その自覚をもって、日々を歩むのです。