いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか。
(第一コリント9:4)
パウロの教えが気に入らず、パウロの使徒性を認めない批判者たちは、
パウロの「飲み食いする権利」を快く受け入れませんでした。
「飲み食いする権利」とは、単に食べたり飲んだりする権利、という意味ではありません。
そのような権利を奪われることは、死を意味します。
さすがにそのようなことを、批判者たちは言ってはいません。
これは「教会の出費によって飲み食いする権利」のことであり、
言い換えれば、「教会によって生活を支えられる権利」のことです。
後に見るように、教会の働き人には、
教会から支出される給料で生活をする権利があることを、神は認めています。
クリスチャンは、神の恵みに感謝して献金をささげ、
教会はささげられたものを、神のために用いますが、
その中に働き人の生活費も含まれます。
しかし、不当な批判をする人たちは、この神の定めも嫌がります。
「働き人の生活は働き人自身で何とかしてほしい。教会では負担したくない。」
というようなことを言います。
結果的にアルバイトなどで何とかしていることはあるにしても、
最初から、教会で負担を負わないというような姿勢は、主のみこころに反します。
ところが不当な批判者は、パウロの生活が教会のお金で支えられることを拒んだのでした。
不当な批判者の特徴は、指導者の生活に打撃を与えようとすることです。
しかし、クリスチャンは、指導者に限らず、互いの生活を支え合おうとするものです。
支えてあげたくでもできない、ということも多いのですが、
それでも祈りに覚え、支え合っていく交わりが、クリスチャンの交わりです。