ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。
律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。
それは律法の下にある人々を獲得するためです。
(第一コリント9:20)
パウロは、人々の救いのためなら、自分の権利を喜んで捨てることができました。
例えば、「ユダヤ人にはユダヤ人のように」振る舞いました。
パウロ自身、ユダヤ人=ユダヤ教徒=「律法の下にある」者でした。
しかし今やクリスチャンとなり、律法の下ではなく、恵みの下にいる者となりました。
パウロとしては、かつてのように、ユダヤ人として、律法の下にある者として、振る舞う必要はありません。
彼には、ユダヤ教的なものに縛られない幸いを満喫する自由がありました。
けれども、かつての自分のようなユダヤ人を救うためには、
喜んでその自由を放棄し、ユダヤ人のごとく振る舞ったのでした。
もちろんこれは、無制限に相手に合わせる、ということではありません。
ユダヤ人が教会を迫害しているからといって一緒に迫害したり、
「イエスは神の子ではない」という彼らの主張に同調したりしたわけではありません。
しかし、本質的でないことであれば、ユダヤ人のすべてを否定せず、
可能な限り、彼らの振る舞いを受け入れ、それに合わせていったのです。
その目的は、彼らに受け入れられることではなく、彼らをキリストのもとに獲得するためです。
「救いのため」という目的をわきまえ、
どこまで合わせるかの境界線をきちんと設けているならば、
私たちもパウロのように、喜んで自由や権利を捨て、
相手と同じように振る舞うことができるでしょう。