またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
(第一コリント12:9)
賜物は、自分のためではなく、「みなの益となるために」、各自に与えられています(7)。
そうした賜物のいくつかが、8節から紹介されていました。
8節では、「知恵のことば」と「知識のことば」でした。
9節では「信仰」と「いやしの賜物」が挙げられています。
いずれも「同じ御霊」によって与えらえる賜物です。
すべての人に与えられるのではなく、「ある人」に与えられます。
ですから、この場合の「信仰」は、
クリスチャン全員が有する信仰のことではありません。
ある人に特に与えられる賜物のようです。
それがどういうものか、断定するのはなかなか難しいのですが、
13:2には、「山を動かすほどの完全な信仰」とありますので、
どんな大きな問題や困難の中にあっても信じ切って乗り越える信仰のことかもしれません。
ともあれ、通常の信仰とは違う、賜物として信仰が、ある人には与えられているということです。
つぎに「いやしの賜物」ですが、文字通り、病気をいやす賜物のことでしょう。
「いやしの賜物」は複数形なので、いろいろな病気、症状に対応するいやしの賜物があったようです。
ある人には、足なえの人を歩かせるような直接的ないやしの賜物が、
ある人には、医学の使用をもっていやす賜物が、
ある人には、心の傷に寄り添い癒す賜物が与えられたことでしょう。
ところで直接的な癒しについては、現代でも存在するのかどうかで、クリスチャンの中でも様々意見があります。
ある人は、そういう癒しの賜物は今日、存在しないと信じています。
一方、奇跡的ないやしの賜物は今日でも用いられていると主張する人もいます。
もちろん癒しの力はその賜物を持っている人のうちにあるのではありません。
癒すのは神です。
神は今日でも癒しをされますが、奇蹟的な癒しは、初代教会時代、使徒たちのメッセージが本当に神からのものだということを確認するためのものだったとするのが、福音派の基本的な理解です。
例えば、イエス様も多くの奇跡をなさいましたが、それは驚かせたり、人を集めたり、人気を得たりするためでなく、
ご自身が神の子であることを示すための「しるし」であると、繰り返し言われました。
使徒たちや、初代教会の「ある人」に与えられたいやしの賜物も、
彼らの働きが、神からのものであることを示すための「しるし」としての要素が大きかったでしょう。
この点を勘違いすると、奇跡や癒しを売り物にする、偽牧師、にせ教師たちに騙されることになります。
奇蹟や癒しを会衆の前で見せて、注目を浴び、事実上、金銭をとり、本を書いて収入を得ているような人たちがいます。
イエス様や使徒たちは、そのようなことは、一切しなかったのです。
奇蹟やいやしは行いますが、それが広まることについては抑制的でした。
奇蹟や癒し目的で集まる人を、喜びませんでした。
もちろん神は今でも奇跡を行いますし、人を癒します。
奇蹟的に病が治ったクリスチャンは少なくありません。
しかし、いやしの賜物によるものは、怪しげなものをのぞいては、今日はほどんとないように思われます。
神は、教会の祈りや、医者の働きや、クリスチャンの愛のわざなどを通して、ふつうの手段で、今日、多くの人の病を奇蹟的に癒しているのではないでしょうか。
同時に、パウロがそうであったように、祈っても癒されない病もあるのです。
それは、その弱さを通して神の栄光があらわれるためです。
ですから、過度に癒しの奇跡を強調し、追い求めることには、よほど注意しないといけません。
何より、私たちの救いそのものが奇蹟です。究極の癒しです。
霊的に死んでいたものが、御霊によって新しく生まれたのです。
それは、病気の癒しと違って、一時的ではなく、永遠の癒しなのです。