第一コリント 11 : 34

 

空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。

(第一コリント11:34)

 

当時の教会での食事は、パン裂きに始まり、食事と交わりをし、契約の杯で終わるというものでした。
単なる食事会ではなく、霊的、礼拝的要素の強いものでした。
始まりから終わりまで、少なくとも1時間はかかったことでしょう。
この一連の主の晩餐を通して、教会はキリストを覚え、その救いに感謝し、キリストにあって救われた者同志としての交わりを覚え、
食事を分かち合い、互いをいたわり、励まし、主にある霊的な楽しい時を過ごし、帰路についたのです。

この目的を理解しないで、ただ食事がしたいから食事会に出るような人は、主の晩餐には来ないで、「家で食べなさい」とパウロは言います。
なぜなら、そういう人が「集まることによって」教会は「さばきを受ける」ことになるからです。
事実、コリント教会には、死者や病人が多く出たのです。

今日、主の晩餐と食事会は、ほとんどの教会で、別々になされていますから、全く同じ問題はないかもしれません。
けれども、例えば、主の晩餐に、おいしい上質なぶどうジュースが出されるとして、それを目当てに主の晩餐に来るような人がいたら、どうでしょうか。
そのような教会は、コリント教会同様、神のさばき(懲らしめ)を受けることになるでしょう。

パウロは最後に、「 その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。」と書いています。
主の晩餐をめぐって、他にも問題があったようです。
ただそれらは、緊急性の高いものではなかったので、直接会って話をしようとしています。
逆に言えば、共同体意識を欠いた主の晩餐という問題は、神のさばきを受けるほどのものであり、すぐに修正しなければならない問題であったということです。

主の晩餐に限らず、クリスチャンは、教会に行く目的を取り違えないように気をつけねばなりません。
クリスチャンは、神を礼拝し、キリストにある交わりを共有し、みことばを学び、祈りあうために教会に行くのです。
神に仕え、互いに仕えあうために、教会に行くのです。
このことを忘れないようにしましょう。