第一コリント 11 : 26

 

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

(第一コリント11:26)

 

「主の晩餐」によって、「あなたがた」すなわちクリスチャンは何をするのでしょうか。
「主の死を告げ知らせる」のです。

この聖句から言える第一のことは、クリスチャンは受け身ではない、ということです。
「主の晩餐」で何かを受けるのではなく、キリストを伝える、「主の死を告げ知らせる」のです。
クリスチャンは、「主の晩餐」において、主体者の一人です。

第二のことは、「主の晩餐」は目に見える説教である、ということです。
「告げ知らせる」という言葉は、「宣教する」という意味です。
「主の晩餐」を行うことで、教会は、全体として、福音を宣教します。
牧師が説教したり、教会学校で教師が教えたり、信徒がチラシを配ったりするのも、宣教ですが、
「主の晩餐」もまた大切な宣教の機会なのです。
「主の晩餐」が「行為による説教」と言われる所以です。

第三に、「主の晩餐」は繰り返し行われる、ということです。
「このパンを食べ、この杯を飲むたびに」とあります。
「主の晩餐」を行うたびに、その都度、福音宣教が繰り返し行われます。
ですから、毎週行う教会もあります。
月に一度、年に数回というところもあるでしょう。
回数は特に定められていませんが、繰り返し行うことが大切なのです。

第四に、「主の晩餐」はイエス再臨までの一時的な儀式です。
「主が来られるまで」、主の晩餐を教会は行います。
主が来られれば、主の晩餐が終わります。
なぜなら、天には、イエスを囲んでのまことの晩餐があるからです。
地上における「主の晩餐」は、その型ともいえます。
私たちは、新天新地での真の「主の晩餐」を待ち望みつつ、
地上での「主の晩餐」を繰り返し行い、キリストを述べ伝えるのです。

このような貴い儀式を主は教会にお与えになっています。
キリストを伝える主体の一人として、
これからも「主の晩餐」をみこころに沿って行っていきましょう。