飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。
(第一コリント11:22)
当時の「主の晩餐」は、食事会(愛餐)と一緒に行われていました。
最初に、「パン裂き」と「契約の杯」が執り行われ、そのあとで食事の交わりがなされました。
そこには、キリストの愛を中心とした教会の交わりがあるはずでした。
しかしコリント教会の主の晩餐と愛餐は、期待されたものとは大きく異なっていました。
金持ちのクリスチャンたちが、貧しいクリスチャンたちを大切にせず、
自分たちだけで食事会を楽しみ、酔っぱらう者もいる始末でした。
その一方で、空腹なまま放っておかれていた人もいたのです。
そのような愛のない人たちに対して、パウロは、
「飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。」と叱ります。
飲み食いが目的なら、教会ではなく、自分の家でしなさい、ということです。
そうすれば、貧しい人たちも苦しい思いをしなくてすみます。
今のような状態は、とてもほめられたものではありません。
改善しなければならないのです。
教会に来る目的を間違えると、
教会も世と変わらない、交わりやイベントの場と化してしまいます。
教会は、神を礼拝し、神を中心とした交わりをし、神から世に遣わされていくために存在しています。
気の合う人とのそれとは違う交わりが、教会にはあります。
キリストの愛にならって、自発的、自己犠牲的に、喜んで相手を大切にしようとする交わりがあります。
主の晩餐は、そんな教会の姿を告白する、貴い礼拝式典なのです。