まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
(第一コリント11:18)
コリント教会には、問題がたくさんありましたが、その一つが、
「集まりが益にならないで、かえって害になっている」ことでした(17)。
どういう害かというと、「教会の集まり」に、「分裂」があったのです。
もちろん、すべての分裂が悪いわけではありません。
「ある程度は、それを信じます」とパウロはある種の分裂は受け入れます。
それは、「ほんとうの信者が明らかになるため」の分裂です(19)。
例えば、多くの教会がカトリックと分裂しています。
それは信じている内容が、あまりに違っているからです。
例えば、マリヤに祈ることなどです。
私たちは神に祈るのであって、同じ罪人の一人である人間マリヤに祈ることは、
クリスチャンにとってはできないことなのです。
それゆえ、分裂しています。
こうした、必要性のある分裂が昔も今もあります。
ルターやカルヴァン、ウェスレーなど、多くの人が、本当の信仰を求めて、
分裂させられたり分裂したりしました。
コリント教会の分裂は、
こうした必要不可欠な分裂、あるいはやむを得ない分裂とは違いました。
お金持ちと貧しい人との間の、人間的な、罪深い分裂でした。
それは悔改めて修復しなければならない分裂でした。
人間的な分裂があるなら、教会の集まりは、かえって害になってしまいます。
貧富、男女、年齢、身分、人種、民族、住居地、仕事などによって、
差別や分断があることは、キリストのからだなる教会の姿ではありません。
違いのある者が集まり、互いの欠けを補いながら一つにされていく。
それがあるべき教会の姿であることを、パウロは論じていくのです。