私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。
(第一コリント11:1)
パウロは前節で
「人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、
どんなことでも、みなの人を喜ばせている」と書きましたが、
この姿勢は、パウロから出たものではありません。
パウロは「キリストを見ならっている」のです。
キリストもまた、
「人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、
どんなことでも、みなの人を喜ばせ」ました。
すなわち、
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われ」たのです(ピリピ2:6~8)。
キリストは、救いという他者の「利益」「喜び」のために、
ご自身の利益を求めず、十字架の身代わりの死を受けてくださったのです。
そのキリストを見習って、パウロも日ごろから、
「自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め」るよう努めています。
そのパウロを見習って、皆さんも、「自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め」るよう勧めているのです。
すなわち、原則、肉はどんなものでも自由に食べてよいのですが、
それが誰かのつまずきになる場合は、
「自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め」て、
食べないようにしましょう、ということです。
私たちもキリストを見習いましょう。
またキリストを見習っている人を、見習いましょう。
さらには、「私がキリストを見ならっているように、
あなたがたも私を見ならってください」と言えるような面を、
一つでも二つでも持つことができるようになりましょう。