市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。
(第一コリント10:25)
パウロは、クリスチャンが偶像の祭りの食事会に参加することをよしとしません。
しかし、市場に出回っている肉については、うるさくいいません。
確かに市場には、偶像にささげられた肉も多く出回っていました。
ただし、それを確かめるのは容易なことではありませんでした。
そうであるならば、重箱の隅をつつくようにして、調べる必要はありません。
パリサイ人、律法学者らは、この種の問題に非常にうるさく、
肉を食す時には、どういう経路のものかなど、細かく質問しました。
パウロはこれと全く違いました。
パウロは度を越した几帳面さには否定的だったのです。
几帳面であることは悪くありません。
バプテスマのヨハネの両親、ザカリヤとエリサベツは、長年、
「主のすべての戒めと定めとを落ち度なく踏み行って」いました。(ルカ1:6)。
几帳面に信仰生活を送ることはよいことです。
毎日聖書を読む。決まった時間に祈る。毎週の礼拝、祈祷会に参列する。
そうしたことをたゆまず踏み行う几帳面さは、よいのです。
しかし、非本質的なことにこだわり、心を窮屈にする几帳面さはよろしくありません。
肉が偶像にささげられたかどうかを調べないと気が済まなかったパリサイ人のような几帳面が、今の時代、どういうところに見られるか、さがしてみるとよいでしょう。
クリスチャンの中にも、一般社会の中にも、案外、そういう無意味な几帳面さが蔓延しているものです。
クリスチャンは、本来、そうした窮屈さから自由にされたのです。
そして自由な心で、落ち度なく、几帳面に、主の定めを踏み行っていくのです。