パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。
それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
(第一コリント10:17)
主の晩餐では、一つのパンが裂かれます。
まず、パンが一つであることが皆の前に示されます。
それは「私たちは、多数であっても、一つのからだ」であるからです。
食べるときには、裂かれたパンを食しますが、
その時、「みなの者がともに一つのパンを食べる」のです。
このように主の晩餐は、ただ自分と神との関係だけでなく、
自分がキリストの十字架の犠牲を覚えて感謝するだけでなく、
そのことによって一つとされた教会、キリストのからだを覚える礼典です。
クリスチャンは、キリストと一つであると同時に、
キリストをかしらとするキリストのからだなる教会と一つであり、
その一部であることを、主の晩餐は証し、主の栄光をあらわすのです。
こういうわけでクリスチャンは、偶像にささげられた肉を食すことを、
軽々しく考えてはならない、というのが、まずパウロの伝えたいことでした。
私たちも、自分がキリストのからだの一部であることを忘れてはなりません。
私たちが悪いものに触れれば、その人だけでなく、他の人にも影響を与えます。
からだの一部に問題があれば、ほかの諸器官にも影響が出るのと同じです。
キリストのからだの一部として、
より一層、偶像礼拝やそのほかの罪に注意しましょう。