ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、
悪意と不正のパン種を用いたりしないで、
パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭をしようではありませんか。
(第一コリント5:8)
コリント教会には、「古いパン種」、「悪意を不正のパン種」がありました。
それは、未信者も絶句するような罪を犯しながら、
高ぶって反省も悔い改めもしないクリスチャンのことです。
そのような人は、教会のためにも、本人のためにも、
一度教会から取り除くべきでした。
しかし、そのようにきちんと対処しないコリント教会に対し、
パウロは、放っておくと大きな問題になると忠告しました。
きちんと対処し、「古いパン種」「悪意と不正のパン種」をもつ人たちのいない、
純粋で真実なクリスチャンによって、祭=礼拝をささげましょう、
とパウロは呼びかけます。
罪を罪とも思わない、たいしたことないと思っている人、
みことばから指摘を受けても、無感覚な人、
痛みも迷いもなく、軽い気持ちで罪を犯し反省しない人、というのは、
一度取り除くべきクリスチャンか、そもそもクリスチャンではない可能性があります。
忠告したり話し合っても悔い改めない人が教会の一員としてとどまり続けていると、
教会全体があらぬ方向にひっぱられていってしまいます。
教会は頭数が多ければ良いというものではありません。
どういう人が構成員であるかが、重要なのです。
神の前に罪を反省し悔い改め、イエスさまを信じて赦され、神に感謝している人。
そういう人のみによって祭=礼拝がささげられることこそ、
教会がめざすべきことなのです。