ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。
それも御使いたちのためにです。
(第一コリント11:10)
女は男をもとにして造られました。(8)
また女は男のために、造られました。(9)
ですから、通常、女は男の栄光の現われとして、
髪の毛を隠すことなく、生活するのがふさわしいことでした。
当時の文化にあっては(今もそういう見方もあるかもしれませんが)、
髪は女の命であり、とりわけ、男のために整えるものでありました。
しかしながら、公の場、とりわけ礼拝においては、
その髪をベールで隠すべきだとパウロは言ってきました。
神の前にあっては、女は男の栄光をあらわすためではなく、
神の栄光をあらわすべきです。
そのために、ベールをつけて神の毛を隠すのがふさわしいのです。
ベールはまた、「権威のしるし」とも言われます。
神の前にあっては、男も女も、一人一人が神の子であり、
祭司であり、選ばれし神の使者でありました。
クリスチャン一人一人が、神から世に派遣されている使者として、
神から権威を授けられているのです。
男の栄光をあらわすという女の役割は消えませんが、
クリスチャンになると、それ以上に神の栄光をあらわすことにもなり、
特に公の礼拝の場では、神のものあるとのしるしとして、
ベールをつけるようパウロは推奨するのでした。
さらにそれは、「御使いのため」でもありました。
すなわち、天使のためです。
天使は、クリスチャンに仕える存在です(ヘブル1:14)。
天使は、男女関係なく、クリスチャンにお仕えしています。
その権威のしるしという意味でも、礼拝ではベールをつけなさいと
パウロは言うのでした。
聖書の男女観は、なんと精緻なものでしょうか。
男女の違い、男女の平等、男女の秩序。
男尊女卑でも、女尊男卑でもなく、
乱暴で画一的な男女平等論でもなく、
単に身体上、役割上の違いをいうだけでもなく、
神との関係、異性との関係において、絶妙なバランスをもった男女観であります。
聖書は、どのテーマについても、奥が深く、
とてもすべてを理解しつくし得るものではありませんが、
みことばの深みに触れるとき、神のみこころが少しずつ私たちのものとなっていくことでしょう。