もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、
あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。
(第一コリント9:11)
パウロはコリントの地で、「御霊のものを蒔いた」のでした。
すなわち、福音を伝え、神に喜ばれる生き方を教えたのでした。
そうであれば、コリント教会から、「物質的なものを刈り取る」資格があるはずです。
収穫を生み出すのに労した人はみな、収穫の分け前にあずかる資格があります。
コリント教会の普通の人たちは、そのことを理解しており、
パウロのために給料を支払えるよう、努めたことでしょう。
しかし批判者たちは、パウロの生活を物質的に支援することを拒んだのでした。
働き人から「御霊のもの」を受けているクリスチャンが、
働き人の「物質的なもの」を満たすのは、「行き過ぎ」たことではありません。
働き人の必要は、主が満たしてくだいますが、
具体的には、それは、クリスチャンのささげものを通して、なされるのです。