それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。
むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。
なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、
脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。
(第一コリント9:10)
申命記4:4で、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」
と神が言われていることを、パウロは前節で引用しました。
これは、牛のことを気にかけているのではなく、
「むろん、私たち(福音宣教者)のために」言われているのです。
すなわち、「耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って
仕事をするのは当然」ということです。
クリスチャンの働き人は、耕す働き(伝道したり、トラクトを配ったりする人)であれ、
刈り取って脱穀する働き(救いに導き、バプテスマを授け、教育する人)であれ、
分配(給料、報酬、生活の支え)を受ける望みをもって、自分の仕事をすべきです。
神は、神のために働く人の必要を、働きの実を通して満たしてくださるお方なのです。