しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
(第一コリント8:3)
人は何かを知っていると思ったら、何も知らない無知な状態に陥ります(2節)。
しかし、人が神を愛するなら、どうなるでしょう。
ここで私たちは、「人が神を愛するなら、真に知識のある人になる」というような表現を
期待するのではないでしょうか。
高ぶれば無知であるが、神を愛するなら豊かな知恵を得る、と。
ところがパウロは、人が知識を得ること以上に、人が「神に知られている」ことを重視します。
こうして私たちは、どうしたら多くの有益な知識を持てるか、そのことばかりを考えがちな
自分の浅はかさを示されます。
もっと大事なことがあるのです。
それは、あなたが神に知られているかどうか、ということです。
神に知られている人は、すなわち、神に愛され、救われ、神のものとされているのです。
それ以上に大切なことがあるでしょうか。
どんなに知識があっても、神に知られていなければ何の意味がありましょう。
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」
マタイ16:26
神に知られている人は、神を愛し、神を求め、神から離れられません。
そのことから、自分は神に知られていることが分かります。
神に知られていることを、神に感謝しましょう。