次に、偶像にささげた肉についてですが、
私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。
しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
(第一コリント8:1)
8章からテーマは「偶像にささげた肉」に移ります。
当時の社会にあって、その肉が何を意味するのか、
クリスチャンとしてどう対応するのか、追々見ていきます。
そこから学ぶ原則は、私たちの信仰生活にも適用され得るものです。
パウロは、肉について話す前に、コリントのクリスチャンの気になる点を指摘します。
それは、「私たちはみな知識を持っている」という高ぶりでした。
コリントから来た手紙には、偶像と肉の問題に関して、
「自分たちは知識を持っている」という表現があったものと思われます。
もちろん、知識は重要です。
パウロも知識を持っています。
偶像にささげる肉についても、聖書や教理についての知識が必要なことは当然です。
しかしコリント教会は、あまりに知識に偏りすぎ、高ぶり、愛を忘れていたようです。
知識は注意して用いないと、人を容易に高ぶらせます。
大切なのは愛です。相手を大切に思う心です。
それがなければ、どんなにすばらしい知識も、伝わりません。
もちろん、愛を持って伝えても、理解されないこともあります。
それは相手の心に覆いがかかっている場合です。
それは相手の問題なので、どうにもできません。
けれども、愛をもって知識を伝えるかどうかは、自分の問題です。
自分の気持ち一つでできることです。
知識のない愛は、人を迷わせますが、
愛のない知識は、人を高ぶらせ、他人を傷つけます。
どちらもよろしくありません。
愛をもって知識を語る時、それは人の徳を建て上げます。
相手のためになり、相手の成長へとつながります。
知識を身に着け、それを愛によって伝えていきましょう。