奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、
同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
(第一コリント7:22)
クリスチャンにとって、社会的身分は何の意味も持ちません。
身分に関わらず、クリスチャンは「主に属する自由人かつ奴隷」だからです。
自由人とは解放された人のこと。
クリスチャンは皆、キリストによって罪の支配から解放された自由人です。
この世で自由人(経済的・社会的に自由な身分)であることよりも、
キリストにあって自由人であることのほうが、はるかに重要です。
またクリスチャンは皆、主の奴隷です。
「奴隷」(ドゥーロス)は「しもべ」とも訳されます。
ほとんど家畜同然に扱われた近現代の欧米における奴隷のことではありません。
そのような奴隷だとしたら、「主の奴隷」とは、
人間性を奪われ、酷使される人という意味になってしまいます。
聖書時代の奴隷は、主人の愛に応えて主人に従順に仕える、親しいしもべです。
主の奴隷、主のしもべとは、主を敬愛し、身を低くして喜んで仕える人のことです。
社会的身分に関係なく、教会では人はみな、主にある自由人であり、しもべです。
皆、平等です。
罪赦された自由人として、感謝と喜びをもって主のしもべとして仕えましょう。