召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。
また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
(第一コリント7:18)
救われた時、割礼があるかないかは、全く問題ありません。
当時、これは非常に大きな問題でした。
ユダヤ人にとっては、割礼のある人だけが神の民でした。
ユダヤ人以外の人にとっては、割礼は嘲笑の的でした。
しかし聖書は全く問題ないと言います。
割礼があってもなくても、クリスチャンになったからといって、変える必要はないのです。
それは表面的な問題です。
私たちも同様です。
救われたからといって何もかも変える必要はありません。
キリスト教の影響が強いイメージのある国の真似をする必要はありません。
救われるとは、日本人らしさを捨てることではないのです。
もちろん、日本文化や伝統には、異教的なものもあります。
でも、すべてが捨てるべきものではありません。
一方、キリスト教の影響が強いイメージのある国にも、多くの異教的な要素があります。
それが、あたかもキリスト教文化の一部として認知されることがあり、やっかいです。
例えば、ハロウィンなどは、明らかに非キリスト教の文化ですが、
ヨーロッパのものだからというのでしょうか、
キリスト教の祭りとして紹介され、信じられたりしていることが現にあります。
召された時、日本人であるなら、日本人らしさを無理に捨てる必要はありません。
召された時、日本人でないなら、その国らしさを無理に捨てる必要もありません。
自分がその国の人間として生まれたことを感謝し、
その国の良い所を受け継ぎ、
その国の問題点は取り除き、
どの国の人にも共通するクリスチャンらしさを何よりも大切にしていきましょう。