しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、
女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
(第一コリント7:2)
結婚しないことは悪いことではありません。
独身は神の召しであり、選ばれた人だけに許されています(マタイ19:10~12)。
他の人は結婚へと召されています。
「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」(マタイ19:5)。
独身は、それに召されていない人にとっては、不品行への誘惑が多くなります。
それでパウロは「不品行を避けるため」、結婚を勧めます。
不品行が当たり前のコリントで、未婚の男女が貞操を守ることは、至難のわざでした。
それでパウロは、罪を犯さないためにも、結婚を勧めます。
もちろん結婚は、不品行を避けるためだけにするのではありません。
結婚にはもっと豊かな意味があり、パウロはそれをエペソ5章などで語っています。
しかしコリント教会には、不品行を避けるための結婚について語る必要がありました。
コリント教会の中には、
禁欲主義から、結婚や夫婦間の営みを「クリスチャンらしくない」と主張する人、
「独身こそ気高い生き方だ」と考える人がいました。
しかし、パウロはその考えの危険性を指摘します。
不自然な禁欲はかえって人を不品行に走らせます。
ある人には、禁欲主義は魅力的に見えるかもしれませんが、
現実には、かえって問題を引き起こします。
今年、アカデミー賞を取った映画「スポットライト 世紀のスクープ」でも扱われましたが、
長年にわたって続いている、カトリック教会での少年少女に対する性的虐待も、
結婚や性に対する誤った理解がもたらした、いたましい事件といえます。
神が与えた性の喜びや結婚を否定することは愚かなのです。