それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。
そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして
悲しむこともなかったのです。
(第一コリント5:2)
義母との性的罪という、いまわしい罪を犯していたコリント教会。
もちろん、それは一部の人の罪ですが、パウロは、コリント教会全体の問題だと指摘します。
なぜなら、教会がその罪を知りながら見逃し、関係者を教会から追放・除籍しないからです。
除籍しないどころか、コリント教会は「誇り高ぶって」いました。
開き直っていた、といってよいでしょう。
「別にいいではないか、そのぐらいの罪は。
十字架によって赦されるのだから、何をしても構わないだろう。
人間だから過ちも犯す。パウロは罪に厳しすぎるよ」といった調子だったのでしょうか。
あるいは、「ギリシャ人の愛の理解では問題ない。
聖書やローマ法が何を言おうと、我々ギリシャ人の生き方に口出ししてほしくありません。」
という感じだったのでしょうか。
ともあれ、教会は罪を痛み悲しむことなく、関係者を指導も除籍もしませんでした。
神のことばに逆らって、意図的に罪を犯し続け、悔い改めを拒む人を、
教会は、最終的には、悲しみつつ取り除くこともあり得ます。
それは教会のきよい交わりを保つためでもあり、
また、罪を犯した人が、真に悔い改めて、再び戻ってくるためでもあるのです。