幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人。
詩篇1:1
神に喜ばれる正しい道と、神に喜ばれない罪人の道。
どちらに進むのか。
私たちは、常にその決断に迫られます。
幸いなのは、神に喜ばれない道を拒む人です。
拒むべきものは拒んでいくことができますように。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
詩篇1:2
幸いな人は、主のおしえ、聖書のメッセージを喜びます。
「昼も夜も」は一日中のこと。「口ずさむ」は思い巡らす、の意。
朝昼晩、いつでもどこでも、みことばを思い巡らし、
神を思いながら、日々を主と共に歩んでいきましょう。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
詩篇1:3
神を神とし、神の教えに一日中、心を奪われている人は、
あたかも、尽きることのない流れのそばに植えられた木のようです。
霊的に、いつまでもみずみずしく、為すことのすべてが神の栄光を表します。
反対に、イエスという幹から離れれば、
枝である私たちは何もできないと主は言われました(ヨハネ15:5)。
聖書と祈りをとおして、しっかりと主イエスにつながりましょう。
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
詩篇1:4
悪者、すなわち神を神としない人について描写しています。
イスラエルの農業では、集めた穀物を鍬などで空中に放り投げます。
すると、もみがらは風で飛ばされ、重さのある穀粒だけが残ります。
悪者は、そのようにふるい分けられ、滅びることが言われています。
正しい者と悪い者との違いが、当時の身近な光景を通して、
描写されているのです。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、
罪人は、正しい者のつどいに立てない。
詩篇1:5
まことの神を神としない「悪者」「罪人」は、
神のさばきに耐えることができません。
出エジプトのとき、傷のない小羊の血が民を守ったように、
イエスの血を受け入れた人だけが、神のさばきを免れるのです。
彼らは、天における神の民の集会に、加わることができません。
神の愛を受け入れる人と、受け入れない人の末路は、
かくも違うのです。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。
しかし、悪者の道は滅びうせる。
詩篇1:6
神の民とそうでない人との比較によって神を賛美する第一篇。
そのまとめの言葉です。
神は、神の民を知っています。
「知る」とは、面倒を見る、見守る、養う、
導く、交わるという意味です。
反対に、神を否定し、自分を神とする人の末路は滅びです。
主に知られている私たちは、何と幸いでしょうか。
ただ恵みによって、神は私たちを神の民としてくださったのです。