しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、
強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
(第一コリント1:27)
イエス様のまわりには、いつもこの世の弱い者、
この世にあっては愚かな者が集まっていました。
遊女、取税人、羊飼いなど、当時のユダヤ社会にあっては最下層の者たち、
あるいは敬遠される人たちがイエス様を慕っていました。
その様子を、遠くから、いぶかしげに見守り、時に善人のふりをして近づき、
心の中でぶつぶつ言いながら妬んでいたのが、
偽善者であるところの、律法学者やパリサイ人ら、および彼らに従う一般大衆でした。
イエス様をとりまく状況がそうなら、教会をとりまく状況も同じです。
なぜなら、教会はイエス様ののからだだからです。
自分は正しい、神のあわれみは必要ない、自分は見えている、分かっている、
霊的に健全であるという人は、教会やイエス様を必要としません。
そのような「知恵ある者」「強い者」をはずかしめるために、
神様は、私たちを選び、救い、教会に加えられたのだとパウロは言います。
自分は無知で無力だという自覚のある人を、イエス様は歓迎します。
アブラハムは言いました。「私はちりや灰にすぎません」(創世記18:27)。
ペテロは言いました。「主よ。私のような者から離れてください。
私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)。
自分は正しい信仰者だと胸を張るパリサイ人の横で、
取税人はうつむいて、胸をたたきながら、
「こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈りました(ルカ18:9~14)。
このような人たちこそ、神の国の民なのです。