兄弟たち。あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。
この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
(第一コリント1:26)
パウロはコリントの教会員に、「召し」のことを考えるよう促しています。
知恵を誇っていたコリント教会の人たちは、
一方的な恵みとあわれみによって「召されている」ことを忘れていたからです。
そこから、様々な問題が生じていました。
神が私たちを召したのは、知恵や権力や身分のゆえではありません。
あるいは立派だから、まじめだから、
「大きな罪」(罪に大小はありませんが)を犯していないから、
親孝行だから、周りの評判が良いから、人気者だから、才能があるから、
見込みがあるから、ではありません。
もちろん、知恵や権力や身分のある人たちがクリスチャンになることもあります。
でも、それが理由で救われるわけではありません。
知恵や権力、身分、そのほか、どんな人間的なものも、
私たちの救いに、ちりほどの貢献もしません。
私たちが召されたのは、召した方の恵みによるのです。
世界の基の置かれる前から、神が愛をもって一人一人をお選びになった。
それゆえに、人は召され、救われるのです。
そして現実には、救われる人の多くは、
この世の知者、権力者、身分の高い者ではありません。
その理由は、次節以後に記されていますが、
ともあれ教会は、多くはこの世の知者や権力者、身分の高い者ではない人が召された、
神の共同体なのです。