ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。
「よく聞きなさい。あなたがたのところに
あの人を連れ出して来ます。
あの人に何の罪も見られないということを、
あなたがたに知らせるためです。」
それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、
出て来られた。
するとピラトは彼らに「さあ、この人です」と言った。
ヨハネ19:4-5
ローマの総督ピラトも、
イエスに罪を見出すことはできませんでした。
もちろん、ピラトは純粋にイエスの無罪を信じ、
それを証明したかったわけではありません。
ピラトの関心は、自分の保身であり、
ローマ皇帝にも、ユダヤ人社会の指導者たちにも
受け入れられる判断をして、
何とかしてこの件を無事に治め、
自分の経歴に傷をつけることなく、
官僚として成功することでした。
ですから、イエスの無実を主張したのも、
罪もない人を処刑したことで、ローマ皇帝から非難され、
左遷や離職されるのを避けるためであったと考えられます。
とはいえ、自分の事しか考えないピラトですら、
イエスの中に罪を見出せなかったのも事実です。
ピラトはユダヤ人たちに、
「さあ、この人です」(この人を見よ)と言って、
イエスを見せました。
それは一晩中裁判を受け、鞭打たれ、
侮辱された、無実のイエスでした。
私たちに示されているのも、このイエスです。
「さあ、この人です」と、神は私たちに、
無実かつ受難のイエスを示します。
このイエスをどう受け止めるのか、
どのような方として認識するのか。
それが、大切な問題です。
悪者はおのれの心の欲望を誇り、
貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。
悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。
その思いは「神はいない」の一言に尽きる。
詩篇10:3-4
肉によって無力になったため、
律法にはできなくなっていることを、
神はしてくださいました。
神はご自分の御子を、罪のために、
罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、
肉において罪を処罰されたのです。
ローマ8:3
ユダヤ人はしるしを要求し、
ギリシヤ人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられた
キリストを宣べ伝えるのです。
ユダヤ人にとってはつまずき、
異邦人にとっては愚かでしょうが、
しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、
召された者にとっては、キリストは神の力、
神の知恵なのです。
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、
神の弱さは人よりも強いからです。
1コリント 1:22-25