それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
(第一コリント12:25)
教会には、目立つ人、目立たない人がいますが、そのことと、その人の重要さとは関係ありません。とくに役職や奉仕の担当がなくても、神様から見ると、実は重要な働きをしている人もいます。しかし、まわりだけでなく、案外、本人も気づいていないことが多いものです。
人間のからだでも、車でも、学校や会社組織でも、目立たない人、目立たない部品が、存外、重要であることは珍しくありません。もちろん、目立つ部分も重要です。それらが調和を保っているとき、全体は、より良く機能します。
教会も同じであって、目立つ人、そうでない人がいて良いのです。大事なのは、そういう違いのある人たちが調和し、「からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合う」ことです。分裂、仲間割れは、教会にふさわしくありません。もちろん、宗教改革のように、偽りの教えについては、分裂が避けられないこともあります。(ちなみに、明日は宗教改革記念日です。カトリック教会の教理的問題は、今も何ら変わっていないことは、悲しむべきことです)。
そのような必要な分裂は別として、人間的な党派心、分裂、分派は聖書が禁じています。私たちは、互いの個性や賜物の違いを尊重し、一致を保ち、互いにいたわり合うように召されています。「いたわり合う」とは、「互いに対して等しいこころ配りをする」ということです。特定の兄弟姉妹を偏り愛するのではなく、等しく大切にし、いたわるのです。もし、心臓がからだの右半分だけを愛し、そこにだけ血液を流したら、からだ全体がおかしくなり、心臓そのものもだめになります。偏り愛することは、教会全体を、ひいては自分自身を苦しめます。等しい心配りをもって、互いを大切にする教会の交わりでありますように。