また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
(第一コリント 12:23~24)
これは、少しわかりにくい訳です。昨年出版された「新改訳2017」では以下のように大きく訳が変わり、分かりやすくなっています。
「また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。」
私たちのからだには、見栄えのよくないところがあり、それを普段は服で覆っています。格好良いスーツや凛とした和服、かわいらしいドレスやカジュアルな服で覆っています。服を脱いで鏡を見ればさして格好のよくない肉体も、流行りの服やトラディショナルな衣装をまとえば、見栄えがします。
同じように神は、からだの器官を組み合わせました。見栄えのしないい器官に、見栄えのする器官を与えて、見栄え良くしたのです。たとえば、筋肉や内臓といった器官は、必要かつ重要ですが、そのままでは見栄えがよくありません。そこで神は皮膚という器官を与えておられます。この場合、表にある皮膚も、その内側にある内臓もどちらも重要なのです。
このことは、教会にも言えるのです。教会には、目立つ人、そうでない人がいます。それは、個々に与えられている賜物が違うからです。しかし、目立つかどうかは、それが重要かどうかと比例しません。どちらも重要なのです。しばしば、目立たない人のほうがその教会の心臓であったりするのです。
コリント教会は、このことを忘れ、異言など目立つ賜物がより重要だと考え、解き明かし抜きに異言を語ったりと、道を外れたことをして、無秩序になっていました。神はむしろ、目立たない賜物を重要視され、教会の調和を保つために用いられます。一人一人が、与えられた賜物を謙虚に受け止め、自分のためでなく、兄弟姉妹のために用いていきましょう。