第一コリント 12 : 2

 

ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。

(第一コリント12:2)

 

パウロは12章から「御霊の賜物」について語っています。
コリント教会に、この点で、大きな混乱があったからです。
そこでパウロは、まず、「クリスチャンとは、御霊を宿す者である」という基本的なことから確認します。

クリスチャンも以前「異教徒であったとき」は御霊を宿していませんから、
「どう導かれたとしても、引かれて行った 所は、ものを言わない偶像の所」でした。
魂の飢え渇きを覚え、真理や救いを探し求めてはいても、
イエス・キリストのところには、恵みの福音による救いには、導かれませんでした。
なぜでしょうか。
御霊が宿っていなかったからです。

聖霊の導きがなければ、どんなに聖書を読んでも、説教を聞いても、
人は救いにはいたりません。
救いは「人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」のです(ローマ9:16)。

神のあわれみによって聖霊をいただかなければ、救いの道を理解し、受け入れることなどできません。
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。・・・なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(第一コリント2:14)

ですから、救われる人のために、神は御霊をくださいました。
「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。」(同2:12)

そして神は、御霊によって聖書を理解させてくださいました。
「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。」(同2:10)

神があわれみによって聖霊を私たちにお与えくださらなければ、
今も私たちは霊的なさまよい人であったでしょう。
あちこちに導かれるものの、いっこうに真理に出会えず、人生の様々な問題に対する解決もなかったでしょう。
聖霊を与えられ、キリストのもとに導かれたことを感謝しましょう。