しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
(第一コリント11:32)
コリント教会のクリスチャンたちは、神の前に自分を吟味する(自分をさばく)ことをしていなかったため、罪に気づいていませんでした。
そのため、神は彼らをさばき、教会内に、死者や病院が多くなりました。
だからといって、神は彼らを見捨てたり、滅ぼそうとしているのではありません。
「私たちがさばかれる」ことは、「主によって懲らしめられる」ことです。
断罪ではなく、懲罰です。
先生が生徒を叱るように、親が子を叱るように、神は私たちを叱り、罰を与えます。
神も親も先生も、愛するからこそ叱り、罰を与えます。
「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」ヘブル12:5~6
「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」同8
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」同11
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」黙示録3:19
神がコリント教会に懲らしめを与えたのも、彼らを愛するが故です。
彼らが「 この世とともに罪に定められることのないため」にお叱りになったのです。
というのも、懲らしめを受けなければ、人はますます悲惨へと転がり落ちていくからです。
「彼は懲らしめがないために死に、その愚かさが大きいためにあやまちを犯す。」箴言5:23
ですから神からの懲らしめに、私たちは感謝しなければなりません。
「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。」箴言 3:11
「銀を受けるよりも、わたしの懲らしめを受けよ。えり抜きの黄金よりも知識を。」箴言 8:10
懲らしめによって、私たちは道を外れていたことに気づき、もとの道に戻ります。
そのまま行けば、永遠の滅びであったところを、神の懲らしめによって救われるのです。
人生を振り返り、今までどのような懲らしめをいただいのかを思い起こしましょう。
そして神様に感謝をしましょう。
今後とも、神が愛をもって私たちを懲らしめ、叱り、滅びの道を突き進むことから守られますように。