しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
(第一コリント11:31)
主の晩餐を適切に執り行わなかった結果、コリント教会内に死者や病人が多くなりました。
それは神のさばきでした。
兄弟愛という実態があって、はじめて主の晩餐は意味をなすのですが、
お金持ちのクリスチャンが、貧しいクリスチャンを顧みず、勝手に飲食し、酔っぱらう者まで出る始末でしたので、神はさばきを送られたのです。
神のさばきを受けないためには、「自分をさばく」ことです。
自分で自分をさばくなら、神から「さばかれることはありません」。
「自分をさばく」とは、どういうことでしょうか。
それは、今の自分のありのままの姿と、クリスチャンとして本来あるべき自分とを比較して、自分自身を吟味する、ということです。
みことばに照らして、今の自分の姿をわきまえ、へりくだり、悔い改め、日々生き方を修正しているなら、神はさばきを送られないのです。
私たちがたとい罪を犯し、失敗したとしても、「自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(第一ヨハネ1:9)すなわち、さばきはありません。
しかし、神の前に自分を吟味せず、罪に気づこうとしていないのであれば、
神は私たちの霊的な目を覚ますため、さばきを送られます。
私たちは日々、神の前に生きているでしょうか。
みことばの前に、自分自身を吟味しているでしょうか。
神のさばきを受けないためには、みことばによって日々「自分をさばく」ように、自分を吟味するようにと、聖書は教えています。