しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
(第一コリント11:20)
コリント教会の「主の晩餐」は、その名にふさわしいものではありませんでした。
形式上は、パンが裂かれ、ぶどうの杯が配られましたが、
主のみこころを損なう差別がそこにはありました。
当時は、主の晩餐の後、食事をするのが慣例でしたが、
その食事の場で、金持ちが貧しい人を顧みないという悪が行われていたのです。
本来、主の晩餐は、十字架で肉を裂かれ血を流されたキリストを頭とする教会の、交わりをあらわすものです。
キリストの分け隔てない愛によって生み出された教会は、
互いに分け隔てなく愛しあう交わりでなければなりません。
貧富のみならず、人種、民族、性別、職業、病気や障害、家柄、学歴などによって、差別があるとすれば、それは「主の」晩餐とは呼べません。
主の晩餐は、今も大切な礼拝儀式ですが、
兄弟姉妹への愛という内実が損なわれているとすれば、
そのような主の晩餐は、主キリストのものとは言えないのです。
主の晩餐を通して、神が私たちに大切にするようにと教えているものを、
私たちも大切にしていきましょう。