たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。
(第一コリント11:16)
パウロは、礼拝における女性のベールについて話してきました。
女の栄光をあらわす髪の毛は、神の栄光をあらわす礼拝に於いては、
覆い隠すべきであるとして、ベールを着用するよう教えました。
この教えに異議を唱える人たちがいることをパウロは予測しています。
彼らは意義を「唱えたがる」(=議論好きな)人であり、争いを好む人です。
問題のないことでも問題にし、反対のための反対をし、議論を長引かせ、
教会の働きを停滞させたり、混乱させたりします。
そういう人たちとは建設的な議論ができません。
こちらがしたくても、決して成り立たないのです。
ですからそういう人たちに対してパウロは、
「礼拝で女性がベールを外すような習慣はクリスチャンにも教会にもない」
という事実を示すことによって、議論を打ち切ります。
相手は理解しようとか先に進もうという気持ちがそもそもないのですから、
話し合いに応じることは時間と労力を無にすることです。
ともあれ、現代日本においては、女性はベールをつけるかどうかなど議論にならないことでありますが、
では今の日本の文化、常識において、どうすることが(どうしないことが)、
神の栄光をあらわすにふさわしいのか、公の礼拝に適しているのか、ということは、各自が考える必要があります。
神の栄光は永遠に変わりませんが、
それを礼拝や日々の生活でいかにあらわしていくのかは、
時代や地域、文化において変わっていくのです。