主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します

 

私は、ほんとうにみじめな人間です。
だれがこの死の、からだから、
私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、
ただ神に感謝します。

ローマ7:24-25a

 

パウロは自分をみじめな人間だと言います。
なぜなら、パウロは、
聖書の基準にかなうことができないからです。
自分としては正しいことをしたいと願っているのに、
それができない。
かえって、したくない悪を行なってしまう。
善を願っているのに、悪が宿っている自分を見出しています。
そういうことが、ローマ7章14節以下に記されています。
これは、救われる前のパウロの言葉ではありません。
救われて、クリスチャンになって、数々の伝道旅行をし、
人々を救いに導き、教会を建て上げ、迫害にあい、
多くの書簡を残した後の、晩年のパウロの言葉です。
そのパウロが、正しいことをできず、
むしろ悪を行なってしまうと言っています。
そんな自分はみじめだ、
誰か救い出してほしい、と叫びます。

円熟したクリスチャンであるパウロが、
罪と戦い、苦悩しています。
これがクリスチャンの現実の一面です。
このような苦悩を味わったことのない
クリスチャンがいるでしょうか。
クリスチャンだからこそ、罪と戦い、
自分の弱さを嘆き、
自分をみじめだと思います。

しかし、そこで終わらないのもまた、
クリスチャンです。
パウロのように、みじめさは一転、
キリストへの感謝へと変わります。
なぜなら、自分のみじめさから目をそむけず、
救いを求め神を見上げる時、聖霊は私たちに、
十字架のキリストを示すからです。
このみじめさから救うために、
キリストは身代わりに死んでくださいました。
死ぬべき私の代わりに、イエスが死んでくださいました。
それは、私たちの罪を赦すためでした。
こんなみじめな私を神は覚えてくださり、
愛してくださり、救いへと導いてくださいます。
確かに、私たちはみじめです。
しかし、神はそんな私たちを救おうと思い、
犠牲となってくださったのでした。

それゆえクリスチャンは、
罪との戦いに疲れて倒れることはありません。
キリストの十字架が私たちの支えとなり、
励ましとなります。
赦されて何度でも回復します。
また、同じような罪を犯してしまうかもしれません。
そして、同じようにみじめさを覚えるでしょう。
でも、神は私たちから離れません。
キリストの十字架は、いつもあります。
このキリストゆえに、
人はただ、神に感謝するのみなのです。

 

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに
善が住んでいないのを知っています。
私には善をしたいという願いがいつもあるのに、
それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、
かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、
それを行なっているのは、もはや私ではなくて、
私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、
その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

ローマ7:18-21

 

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が
罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、
罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、
神はしてくださいました。
神はご自分の御子を、罪のために、
罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、
肉において罪を処罰されたのです。

ローマ8:1-3

 

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、
真理は私たちのうちにありません。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、
神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、
すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、罪を犯してはいないと言うなら、
私たちは神を偽り者とするのです。
神のみことばは私たちのうちにありません。

第一ヨハネ1:8-10